初めから読む→【創作小説】風見鶏【vol.1】
迷い
すっかり日は落ちて、あたりは薄暗くなっていた。
何もなかったかのように、家路についた私。
彼もまた、落ち着きを取り戻し、彼の日常へと帰っていった。
ただし、これまでとは違う。
私は彼の本当の名を知っているし、彼も私の名を知っている。
いつでも呼び合い、手を触れることもできる。
夫から受け取ったスマートフォンでの連絡は避け、当面は彼から借りた電話を使うことになった。
彼、タクミは私との待ち合わせの前に、会社から一台、業務用のものを持ち出していたのだ。
タクミは彼の父の経営する会社で働いているため、多少の自由は利くのだと言う。
なんとも用意周到だった。
「あ、いけない」そうだ、夫からもらったスマートフォンをずっとオフにしていた。
急な仕事の呼び出しで飛び出していったが、何かしらの連絡が入っているかもしれない。
私が電源を切ったままにしていることが分かったらまずい。
焦る気持ちを抑えつつ、バッグを探り、スマホを取り出し、電源を入れる。
光が灯るまでの時間が妙に長く感じる……そして、メールが一件。
夫からだった。
「今日はちょっと帰れない」
肩の力が抜け、ため息をつく。
よかった、私が外出していたこともバレてはいないらしい。
「ふう…」
しかし、これから私はどうしたら良いだろうか。
タクミと現実でつながってしまった。
今日のことは勢いだった部分もあるが、私はずっと彼に惹かれていたのだ。
彼の方も憎からず思っているに違いない。
とは言え、今のこの状況はとてもまずい。
私は結婚している身であり、許されない関係だ。
それならば、今からでも離婚を申し出て、私が独り身になればいい。
タクミとの関係がどうなっていくかは分からない。
タクミの元妻であり、私の友人でもあるミサキのこともある。
二人は今でも親しい友人関係のようなものを築いているらしい。
私は彼らのいる世界では歓迎されないだろう。
だが、それでもいいと思っていた。
抑圧された希望や欲望、箱庭に閉じ込められたような生活。
今日味わった自由によって、その息苦しさに気づいてしまった。
だが、夫は簡単に引きさがってくれるだろうか。
もし私が離婚を言い出したら、とんでもないことをしそうな気がする。
なんとなく寒気を覚え、自分の肩を抱く。
とにかく、家へ戻った方がいい。
明かりが灯る窓
自宅が近づいてきたところで、ふと違和感を覚えて足を止める。
窓から室内の明かりが漏れていた。
誰かいる?
夫が帰っているのだろうか?
私が出て行ったのは、まだ日の高いうちだった。
そのため、明かりは付けていないはずだ。
夫はいつ帰ってきたのだろう。
さっきのメールが、私を油断させ、遊び歩かせるためのフェイクのようにさえ見えてきた。
無意識のうちに私は髪に手をやり、手ぐしで乱れを整える。
大丈夫、きっとうまくごまかせる。
鍵を取り出し、そっと玄関の戸を開けた。